タネも仕掛けも探偵の内
​ うちの大学の図書館は大した蔵書量でもないけど、試験前には大体人で埋まる。俺は閲覧席の片隅にいる男の顔を見つめながら、あくびを噛み殺す。 ​ 向けられた視線に気付くこともなく、アヤタは静かに教科書を読んでいた。その手前に見えるのは丁寧に開かれたバインダーだ。俺は小さく笑って、スマートフォンを手のひらで隠すように操作する。グループLINEでは、試験対策用に先輩たちから手に入れたらしい過去問が流れてきていた。 「うーん、どうやら今回の試験は範囲が広いらしいぞ」 ​ 注目されるよう、わざとらしく唸ってみせる。アヤタが肩をわずかにすくめた。集中している途中だったのだろう。顔も上げずにアヤタが答える。 「そんなこと、初めからわかってただろ。先生が『これまでの全範囲から問題を出す』って言ってたし」 「でも、実際に範囲が多いとさあ、名探偵業と両立するのがどうにもならないんだよな。全部を網羅するのはめんどいし、俺は雰囲気で点を取るしかないか」 ​ そう言いながら、俺はテーブルの下でスマホの画面をチラ見する。今日に限って、アヤタは全然LINEをチェックしてないようだ。まあ、こいつが同じようにスマホを見たところで、そういう情報を知り得ないということを、俺は知っている。 ​ なぜなら、大抵アヤタが所属するようなグループには俺も入っているからだ。アヤタの狭い交友関係は、俺の持っている広がりの中に収まる。把握してないのは、アヤタのバイト先とアヤタの家族ぐらいか。 ​ アヤタが多分存在すら知らないグループでは、大勢があれこれ楽するためのデータを投げ合っていた。 「最近謎も解いてないのに、探偵を勉強しない言い訳にするなよ。……まさか、ヤマ張るとか言い出すつもりか?」 「ヤマじゃなくて、探偵の第六感だな」 ​ アヤタが溜息を吐く。どうせ俺が適当に言っているだけだと思っているのか、「はいはい」と気のない返事をしながらページをめくっている。紙が擦れる、やわらかな音だけが図書館の静けさに混じる。 ​ 一瞬、アヤタの持つ教科書を借りようかと手を伸ばしかけるが、すぐに引っ込める。今、俺の手元にはデータがある。わざわざ教科書をめくる労力も必要ないくらいに、試験の傾向や頻出問題がまとまったファイルをゲットしている。 ​ だが、アドバンテージを堂々と示すのはなんだかもったいない。アヤタは俺の前だと素直に褒めてくれはしないが、いい感じに有用性をアピールできれば、「灯影院って、たまに頼れるとこあるな」みたいに思って、少しは言葉にしてくるかもしれない。アヤタはそういうところは律儀なのだ。 ​ もっとも、アヤタの性格は見た程わかりやすくはない。真面目そうに見えて、実は主体性に欠けている。他人に驚くほど関心がない癖に、いけそうな相手のときはいちいちツッコミに力を入れる。そこがいちばん面白いんだけれど。 ​ 俺は椅子から立ち上がり、アヤタの隣の席に移動する。近づいた瞬間、アヤタはうっすら眉をひそめて俺を見た。 「何? 邪魔しにきたのか」 「いやいや、同じところやるなら隣で勉強したほうが効率いいだろ? アヤタはどこまで進んだ?」 「あんまり進んでないけど」 ​ 言葉こそ素っ気ないが、アヤタはルーズリーフをこっちに見せてくる。丁寧にまとめた文字がずらりと並んでいて、感心するほど綺麗だ。提出するつもりがないものに、俺ならここまでの労力は掛けられないだろう。 ​ 机の上のルーズリーフを指差して、俺は口を開く。 「例えばここ。二章の演習問題がけっこうポイント高いんだと思うんだよな」 「へえ、それが第六感か。珍しく真面目だな。いつもはもっと突拍子もないことを言うくせに」 ​ アヤタは小首をかしげつつ、不信の奥に興味深そうな表情を見せる。俺と比べて大人しい顔かもしれないが、その何気ない仕草には小さな愛嬌がある。俺は言葉より先にレジュメをペラペラとめくりながら、さらりと受け答えを続ける。 「これは推理した結果だって。この範囲は絶対重要だってピンと来るんだよな。ほら、今年の講義スケジュールとレジュメを見ると、先生が妙に強調してたところがあるだろ? そこは怪しい気がしてこないか」 「言い方が適当くさいけど、意外と核心をついてる気がする」 ​ アヤタがつぶやきながら俺を横目で見る。不満そうな顔つきをしているが、確かに俺の言葉を疑いきれてはいないようだ。その反応は悪くない。 ​ 実のところ、グループLINEで「この講義の試験は二章重点」と書き込む先輩がいたから、その言葉を借りただけだ。今はまだそれを言わず、ひとまず勝手に資料を広げたふりをして論点をまとめてみる。 ​ アヤタは不服そうな態度を取りつつも、俺が言う箇所を慎重に確認している。そんな姿を横目で見て、俺は心の中で小さくガッツポーズを決める。勉強は地道に積み重ねていくような幼馴染が、少しずつ俺の言葉に誘導されている感じがするのだ。 ​ そして、とうとうアヤタはルーズリーフにメモをした。「試験に出るかも」の文字に、笑みが溢れるのを抑えきれなかったのは仕方ないことだろう。
どこにでもあるような図書館の片隅で、俺達はごく当たり前の時間を過ごしているはずだ。けれど、そんな当たり前の中で微かな優越感を密かに感じ取っていた。アヤタがどんな顔をして俺の言葉を飲み込むのか、心のどこかでいつも期待している。 ​ 窓の外では、薄曇りの空が変わり映えしないまま広がっていた。俺はそのどこかぼんやりとした色合いに安堵を覚える。この退屈な景色の中で、アヤタと俺だけの小さなやり取りが続いている日常は悪くない。