小雪芹が花鳥兜の幸せを祈る話 (1)
ドクセリ
花言葉「死も惜しまず」
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「花鳥くんが必要としているのは相棒であって、それは恋人じゃないでしょ」 ​ 気を抜けば身体がどこまでも沈みそうなソファの上で、小雪芹は月宮ウツギと相対していた。外からは雨がざあざあと降りしきる音が、カーテンを閉めたリビングにいても響いている。予報ではここ一週間は雨知らずだと言っていたのに。淡々と時間が進むこの部屋にはシュレディンガーはおろか、ケルベロスの姿も見えない。今ごろ別室で平和に遊んでいるのだろうか。悩みを抱えずに生きる姿が少しだけ羨ましかった。 「だから、芹くんは逃げるんだ。この俺を利用してまで」 「前に言ってたよね。月宮くんは花鳥くんにやりたいことを好きにやってほしいって。ねえ、そのためには僕だって邪魔になるんじゃないの?」 ​ 記憶の底から引き出した、飄々として人間離れした彼の唯一の弱点。一番側にいて、だからこそ知ることができない恐れのこと。いつもだったら触れない、見え透いた地雷原。だけど躊躇なんてしていられない。 「へぇ、芹くんも俺を脅すなんて成長したんだね。まるで別人みたいだ」 ​ 冷え切った空間で双方の視線がぶつかった。薄らと開かれた青の奥には得体の知れない世界が広がっている。それは軽い気持ちで覗き込むのを許さない、月宮の心そのものに見えた。 ​ 自嘲気味に芹は息を吐いた。あまりにも馬鹿らしい相手と、想いを寄せてしまった自分自身に。そうだね。憎たらしくてめちゃくちゃ腹が立つけど、これも「好きだから」なんて言葉でまとめられると思ったことに驚いてる。 ​ 凍った空気を溶かしたのは、呆れたような一呼吸だった。困ったように眉を下げて、相手は口を開く。中途半端に歪められた唇は笑うべきか戸惑っている。月宮のこんな表情は初めて目にした。 「芹くんが恋してることはわかってたけど……まさかここまで」 「納得してくれた? 僕だって、ちょっと前までだったら自分が言ってることを信じられなかったと思うよ」 「確かに恋愛は人を変えるって言うけど、あまりの変貌ぶりに月宮くんもびっくり。なるほどね」 ​ わかった。じゃあ協力してあげる。その言葉を引き出すまでに、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。見るからに高級そうなお茶菓子には一つも手を付けていない。自己満足でしかないが、芹なりのけじめみたいなものだった。くだらないことに人を巻き込んでしまうという罪悪感と、それでも消えない覚悟がマーブル模様を描く。 「ありがとう、月宮くん。できれば少しでも早いほうがいいんだけど、お願いしていいかな」 「まぁまぁ、焦らないで。こういうのは雰囲気が重要なんだよ。それによって効果も全然違ってくるんだからさ」 ​ 膝を乗り出してせがむ芹を月宮は押し止めた。ちょっと待ってて、今道具持ってくるから。気付けば、一人。広い家の中でぽつんと取り残されていた。 ​ 窓の外はますます雨が強まっているようだった。心地良いノイズは時間感覚を乱し、現実から隔離してくれる。そうなると、どうしてここにいるのか疑問に思われて、記憶を辿りたくなってしまったのだった。その先に何があるのか、既に理解していたけれど。
最初に気付いたのは、名前を呼ばれたときの胸の痛みだったと思う。甘やかな気持ちにさせられる優しい痛みと、苦しさが募る鈍い痛み。どちらが恋と断言できるはずなかった。なんにせよ、芹にとっては初恋だったのだから。 ​ 恋しい人とうざったい友達、そこには縮まらない差がないといけなかった。芹は澄楚さんに恋をしていると信じて疑わなかったし、なんなら今だってそうであってほしいと願っている。ただ「好き」と「気になる」が混同してしまったから問題なのだ。「恋情」と「友情」を勘違いするなんて、おかしくなってしまったとしか考えられない。 ​ きっかけなんて偶然の組み合わせでしかない。なぜか下の名前で呼んできた誰かさんのゾッとするぐらいに真剣な声や、ふと見せた表情の影、パーソナルスペースの意識が薄かったりなど。そんな積み重ねが、無駄に心臓がざわつく、なんて錯覚を生み出したのだ。 ​ いつも通りそのままでよかったのに。慣れていない小雪芹はエラーを起こしてしまった。そのせいで連鎖的に全てが意識対象へと変化してしまった。まさか変な感情を引き起こして日常を侵略してくるなんて、相手への八つ当たりを抑えるのに必死だった。 ​ ついでに、そいつは一度思考を占拠されたら戻らないことも教えてくれた。いつだって隣にいて、もはや聞き馴染んだあだ名で呼んでくる。なにか事あるごとにくっついてくるし、あまつさえ「大好きだ」と真っ直ぐに見つめてくるのだ。性別が違ったらどうみてもセクハラ案件だろうし、きっと出会わなかった。あんなに異性に動揺しきりじゃ、視界の端が精一杯だっただろう。芹も危ない人だと見て見ぬふりを決めこんでいた。 ​ だから、このままでいいのだ。この距離が正解で、これ以上近付くのは想定していないだろう。構われたがりは癪に障るから無視して、時々耐えられなくなるけどできるだけ堪える。芹だって、仲間と一緒にいることに心揺らがなかった訳ではないから。 ​ それに彼の運命は一つではないことを、知ってしまった。思い返せば、その日も雨が降っていた。
一ヶ月前ぐらいのことである。進路相談室からの景色は水煙で輪郭がぼやけるほどに白く不鮮明だった。 ​ 芹ははっきり言って、進学に不利な状態だと担任から認識されている。ただでさえ落ち目の集中力が本人不在でも乱されている現状、成績が散々なことは火を見るより明らかだった。模試はほとんどの解答欄を埋めてみたものの、見るに耐えない結果に終わった。 ​ それを見かねた担任が二者面談を提案してきたのは、先生としてはまともな行動なのだろう。しかし、巨悪の根源である暗黒破壊神をどうにかしてくれることもなく、ただただ芹の愚痴聞きに徹していた。クラスメイトの妨害によって、苦しんでいる生徒の意見を取り入れる気はないらしい。 ​ せめて気持ちが晴れるまではと話を続けていたら、すっかり時計の針は6時を指していた。担任は「大雨だし気をつけて帰れよ」と廊下で見送ると、職員室へと足早に去っていく。芹は入れ違った他の職員によって敷地内から追い出された。あまりにも遅くなってしまったみたいで、誰もいない帰り道。濁った水溜まりを避けて、水没しかかった道は遠回りする。ふと顔を上げると、普段めったに通らない交差点の方まで進んでいた。 ​ あれ。今オレンジがかった髪が視界の端に映ったような。でもみんなには雨が酷くなりそうだからと言い含めて先に帰したはず。それから一時間以上経っているのだ。普通なら通学路にいるはずがない。だけど地毛なのか、中二病設定かすらわからないあの髪色はめったにいないのも事実だ。まさかこんなどしゃ降りの中で人を待っていた、とか。ありえないと打ち消そうとするが、目は万が一の想像に期待してしまっていた。 ​ ……あの日の帰り道、遠回りなんてしなきゃよかったのに。足元が濡れる程度なら、温かいお風呂と布団に任せて翌日には忘れてしまえた。何も知らないまま家に着いていれば、風邪を拗らせることもなかったのだ。 ​ そして似合わない組み合わせの中に、彼の背中を見つけた。隣合う影、ハイヒール、相合傘。肩を濡らしながらぎこちなく笑う横顔を、翡翠色の瞳は捉えた。雨越しで視界は曖昧なはずなのに、くっきりと脳裏に刻まれる。 ​ 芹は冷たい傘の柄を握った。一体、何をしようとしていたんだっけ。花鳥くんが待っていたのは、僕ではなくあの女の人。その人とは傘を差してあげながら、笑顔を向けるぐらいには親しい関係だ。僕の知らない、人。 ​ とめどない思考が雨音で上書きされていく。あまりに遠くて、呆然と立ち尽くしていた。
教室に入ると、視線が一気にドアの方へ集まった。クラスメイトが遠巻きに様子を伺っているのを感じる。前回の休み、つまりいつものメンバーたちに愛想尽かしたときから、どこか腫れ物扱いされることがある。芹もできることなら彼らみたいに他人事として、平穏な日常を手にしたかった。しかし不名誉にも仲間認定を受けてしまったら最後。空気という圧力により、まったく関係ないはずの出来事に強制的に関わらざるを得なくなる。 ​ 諦めることに慣れていくのが、嫌だ。自分の意思で行動することって、こんなにも難しかったのか。自席に向かうと、そんな繊細で悶々とした悩みとは無縁そうな人たちがいた。 「芹くん、4日ぶりだねー。この間の大雨でびしょ濡れになって風邪引いたでしょ? 立入禁止のプレートに芹ママが心配してたよ」 「そうじゃったのか……こゆ吉殿を責任持って家まで送らなかった拙者のせいじゃ。罰として拙者を風邪菌のように退治してくれんか?!」 「うわ~ん、またしてもボクのせいですね? 死神ヒリウスがゲシュテーバー先輩へ大雨を呼び寄せてしまったんですね。ごめんなさ~い!」 「あ、えっと、心配かけてごめん」 ​ 思い思いの言葉を投げてくる月宮たちに芹は素直に返した。ツッコむ気になれなかったのもあるが、一切の連絡を取らなかったのは本当だからだ。土日を挟んだから2日間学校を休んだことになる。家に突撃訪問されるかもと身構えていたが、母親までも謝絶した札は無事に機能してくれたようだった。あと、月宮くんは何かと理由を付けてうちの母親と話したかっただけだろ。応対できないという情報を回してくれたみたいだから、何も言わないけど。 ​ 登校するにあたって念のためマスクを付けているが、実際は大分回復したと思う。授業のノートは誰かに貸してもらうしかないが、悲しいことに芹以外のメンバーは芹より成績が良いのだ。年下のひびきはもちろん除く。万が一、二年生に負けていたら、二度と立ち直れないだろう。 「とりあえず、僕は元気だから」 ​ 束の間の一時にほっとしていると、何者かが廊下から飛び込んできた。走ってきたのか髪は乱れ、呼吸を荒げている。心なしか瞳も潤んでいた。芹はその姿に足が竦むのを隠しきれただろうかと不安になった。 「ゲシュテーバー! 連絡しても返信が来ないし、心配したんだぞ!?」 ​ 一番避けられなくて、だからこそ最も会いたくなかった人物。目を見ることがどうしてもできない。意識と熱が表面に集まる感覚とは違い、身体の芯から冷えていく。どしゃ降りの雨が脳を支配する。今日の空はどこまでも快晴なのに。 「花鳥くん」 「なんだか顔色が悪そうだな、ゲシュテーバー。無理してるんじゃないか」 ​ 花鳥の右手が、額に触れようとした。皮膚を打つ音がして距離は開く。気付くと、芹は手を振り払っていた。 「……ごめん、まだ伝染るかもしれないから」 ​ わざとらしく咳を繰り返し、花鳥の側を離れる。彼は目を大きく見開いて、音にならない声を洩らす。そんな傷付いた顔しないでよ。これはツッコミの範疇でいつも通り。そうでなきゃいけないでしょ。 ​ 壁時計を仰ぎ見て、呟いた。そろそろホームルームの時間だよ、僕はもう席に戻るから。後ろから呼び止める声を無視して、自分の席に座った。暗黒破壊神は友情にしては過剰な感情ごと消えてしまえばいいと思う。何もなければ平穏無事なハッピーエンドも目前? わからないけど、もうこれ以上心を揺らさないでほしかった。揺れないでほしかった。
「芹くん、大丈夫? こっちは準備できたよ」 ​ はっと意識を戻せば、そこは月宮家の大きなソファの上だった。雨の音につられて、うとうとと記憶を彷徨っていた。見渡せば、何やら怪しげな石とロウソクを持ち、白いローブを纏った月宮が立っていた。不審者スレスレな格好なはずなのに、教祖として見れば様になっているのが不思議である。いや、教祖として似合っているとはどういうことなのか。 「そりゃ、月の宮としての正装だからねー」さらっと心を読むな。 「……一応聞いてあげるけど、その石は何?」 「儀式に必要なものだよ。聖なる川から俺が一つ一つ選別した、魔法の石」 「つまり、河原で拾ってきた石なんでしょ。また信者のみなさんに売り付けてるの?」 「人聞き悪いなー、芹くん。これはより救われたい人のためのオプションみたいなもので」 「ああそう。それって壺より質が悪いよね」 ​ 気にしない、気にしない。今回は芹くんへ特別にプレゼントしてあげるから。じゃあ、始める前に最終確認ね。そう、月宮は囁く。芹は沈みがちなソファの上で姿勢を正した。 「芹くんは、『花鳥への恋心を忘れたい』んだよね。合ってる?」 「うん。……理解したつもりでも『恋』って言われるとなんか変な気分になる」 「でも、正しく把握してないと大変なことになるからね。適当な気持ちでやったら、今までの記憶がを全部忘れちゃうかもよ。それに俺が」 「わかってる。そこは月宮くんを信頼する」 ​ 冗談に聞こえない口調でも、普段は意見をわざとスルーしていても、彼は大事なことを茶化さない。言い切れば、月宮は息を吐いた。何かを抑えるように、深く深く。再び開かれた口元には薄く冷たい笑みが浮かんでいた。 「俺がやるから、失敗することはないだろうけどさ」 ​ 後悔はするかもよ。閉じられた瞳の奥から心中を見定められているように感じた。 「後悔してもいいよ」 ​ 大丈夫。全部終わったら、いつも通り普通の僕になってみせるから。筋金入りの中二病患者と、それに振り回されるツッコミ癖のある男子高校生。何ら変わりのない構図には、不要な恋心を引き算すると元に戻れるはずなのだ。