The happiest place
​ 夕方のチャイムが街に流れると、空はもう夕焼け色に染まっている。そんな季節のことだ。今日もどこかで二人の男子学生が勉強会を行っていた。
「ゲシュテーバー、そのまま寝ると風邪引くぞ」 ​ 花鳥が机に突っ伏している芹に声を掛ける。昨日今日とあまり伸びていない模試の結果にわあわあ叫んでいたので、やはり疲れているのだろう。机の上には英語の教科書とノートが開かれていた。けれど、楽しい夢でも見ているのか口元が緩んでいる。いつまでも眺めていられる、幸せな一時。しかし花鳥は寝顔を名残惜しく感じながら、掛けるものを探しに行こうとした。 ​ 瞬間、眠っているはずの芹が花鳥のシャツの裾を掴んだ。どうしよう、起こすつもりはなかったのだが。そんな花鳥の思いを知ることもなく、芹のとろんとした瞳が虚空をさまよう。まだ夢の中から抜け切っていない声音が耳に届いた。 「あっためてくれるんでしょ」 「え」 「早くしないと、風邪、引くから」 ​ 芹が向きを変えて花鳥を見据える。抱っこをせがむ幼児のごとく、腕が広げられていた。花鳥は突然の芹の要求に戸惑った。普段は自然に手を繋ぐことさえできないのに、ハグはハードルが高かった。それも芹からのアプローチならなおさら。けれど覚悟を決めて、恐る恐る身体に腕を回す。猫一匹収まる隙間、触れた手に身動ぎが伝わるたびに震えが走る。もっとかっこいい姿を見せたいのに形無しだ。緊張で手の平は汗をかいていた。 「……花鳥くんのヘタレ」 ​ 不満そうに頬を膨らまして、芹が花鳥に身を預ける。にゃんてこが見つめる部屋の中央で二人は寄り添っている。 ​ こういうときはぎゅっとしてよ。芹は頭を擦り付けるようにして胸元に顔を埋める。息を吸い込むたびに、相手の成分が体内に取り込まれていくのを感じる。速く高鳴る心音はどちらのものかわからない。重なった体温でじわりと境界が溶かされていく。芹は静かに目を閉じる。 「げ、ゲシュテ、どうかしたのか」 ​ めったにないことだからだろう、花鳥の声は上擦っている。 ​ 「友達」のときは遠慮なんかしてこなかったくせに。こうなったのも全部花鳥くんのせいなのに、ずるいよね。こっちばっかり甘えてるみたいで、不公平じゃないか。でもいいよ、今日だけは許してあげる。その代わり道連れだ。ぼおっとする頭で、花鳥を見つめた。 「たまにはいいでしょ。……嫌なら、別にいいけど」 ​ 橙色の目に訴えかけてやろうと思ったのに、想像以上に恥ずかしくてすぐに逸らしてしまった。慣れないことはするものではない。視線を合わせるのでさえ上手にできないのに、素直になるなんてもっと難しい。思考を眠気でぼやかしても、肝心なところで詰まってしまう。芹は傷付くのが怖くて、いつの間にか本音の伝え方が遠回しになってしまった。 「嫌じゃないっ! 俺はどんなゲシュテーバーでも好きだぞ」 ​ それなのに、どうして言葉足らずの台詞から欲しい言葉をくれるのか。ありふれているはずの言葉が特別に響く理由なんか知らない。真剣な声か、肌から伝わる心拍か、いつの間に慣れ親しんでいた匂いなのか。それら全て含んだ「花鳥兜」だからか。意識してしまった時点で、勝目がなくなっていく。もしかすると恋とは究極の自爆行為かもしれない。 ​ だから巻き込んでしまえ。花鳥くんが散々振り回してくれたぶんだけ、僕も仕返す権利ぐらいあるはずだ。 ​ 意外と硬い胸元を軽く押すだけであっけなく倒れ込む。カーペットの上で唖然としている恋人に馬乗りすると、ゆっくりと見降ろす。花鳥はわかりやすく狼狽えて口をぱくぱくしている。なにか言いたげなその態度に、芹の口元には笑みが浮かぶ。 「う、あ、げしゅ、その、そういうことは、まだ」 「おやすみ」 ​ たとえ芹の方が少し小さいといっても、覆い被さってしまえば花鳥は身動きが取れなくなった。芹は首筋に顔がすっぽり嵌るようにして、身体を安定させた。 「ちょっと待って、ゲシュテーバー。流石にこの体勢はきついぞ」 ​ しかし、猫のような相棒は驚きの速さで夢の世界へと旅立った。体勢を直すと芹が落ちてしまうことは確実。それに心底幸福そうな表情で抱き付かれてしまったら、どうして解けるなどと思えるのか。花鳥は深呼吸して、黒髪をそっとやさしく撫でた。 ​ あとには二人が眠りに落ちる姿があった。どこまでもゆるやかな、そんな時間だった。 ​ (あっ、宿題が終わってない……) (ゲシュテーバー……俺が教えるから頑張ろうな。うっ、まだ痺れてる、たしゅけーばー!!)