おんづ屋

合鍵には至らない

1

​ 首筋と鎖骨の間、ギリギリ服で隠せる場所に付けられた赤紫の痕がぼんやり映る。こういうとき、灯影院は巧妙だ。僕の羞恥心を煽り、支配の烙印を押したがる。  シャワーの水流は濁った意識を洗い流してくれない。ぬるめの温度は、灯影院の唇の感触を思い出させる。緩やかに這う舌の圧。僕の首筋をなぞり、時折歯を立てる仕草。 「ああ……」  嫌悪感で唇が歪む。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕は、情けない自分自身を認めたくなかった。流れる水が、微かな痛みを伴うキスマークを撫でる。それは、まるで灯影院に愛撫されているみたいだ。 「やめろ……」  瞳を閉じ、シャワーが顔を濡らすのに任せる。涙なのか水滴なのか、もう分からない。  ただ、心の奥底で疼く自己嫌悪だけはまざまざと感じていた。こんなことを望んでいたわけじゃない。友情ですらなく、支配され、利用されているだけだ。そのことを骨身に染みて理解している。  なのに、僕はこの歪んだ関係から抜け出せない。最初は無理矢理だったのに、いつの間にか、灯影院の求めに自分から応じるようになってしまった。それが、僕が灯影院へ期待し、壊してしまった罪悪感から逃れる唯一の方法だと、無意識に悟ってしまったからだ。  いくら洗っても、もう元には戻れない。僕はすっかりおかしくなってしまった。 「くそっ……!」  頬を伝って、体内に入り込む水が気持ち悪い。歯を食いしばって呟く。  もしかしたら、僕たちは最初から間違えていたのだろうか。あのとき灯影院の名前に触れたことが、僕にとって取り返しのつかない過ちだったのかもしれない。集団の悪意のきっかけになった僕が、灯影院に執着され、依存を深めていく。それが、何も見えていなかった僕への罰なのか。 「はは……」  鏡の中に、平凡な男の皮肉な笑みが浮かぶ。こんな結末は望んでいなかった。でも、これが無気力な僕と変人な灯影院にふさわしいのかもしれない。  僕は息を吐き出しながら、シャワーを止めた。鏡の曇りを拭うと、嫌でも痕が目につく。指で隠すとひりつく痛みに顔が歪んだ。もう出よう。  バスマットを踏み付け、熱気から逃れるようにドアを閉じた。曇りガラスの向こうには、灯影院の使っているシャンプーと並んで、僕が家で使っているものと同じシャンプーがある。一度脈絡もなく訊ねられたこれも、灯影院の目敏さによるものだろう。その執念で背筋が硬ばり、怖気が肌を伝う。  水滴を垂らさないようにタオルに手を伸ばす。毎回用意されているこの手触りは自宅より柔らかく、分厚い。全身を拭い、服を着た。 「ドライヤー、借りるぞ」  リビングにいるであろう灯影院に声をかけ、返事を待たずにドライヤーを手に取る。温風が髪を乾かしていく間も、頭の中はさっきの情事のことでいっぱいだ。  週に一日か二日、僕はこうして灯影院の家に来る。表向きは遊びに来ているという体だが、本当の目的は……。到底口に出すのもはばかられる隠し事に、顔が熱くなるのを感じた。  リビングに戻ると、何食わぬ顔で灯影院が話しかけてくる。まるでさっき僕を抱いたのが嘘みたいに、いつもの調子だ。 「おかえり。乾いたか?」 「ああ……」  僕も何もなかったふりをしようと努める。  ソファに腰掛けると、灯影院は大学の話を振ってきた。僕はそれに答える。ありふれて当たり触りのない、普通の友人のふりだ。今座る場所でさえも、何度も情事の舞台にしておいて、すべて見ないことにする。  そうやって日常に引き戻す。それが灯影院流のやり方だ。体の関係を持つようになってから繰り返されている、灯影院の家で演じるいびつな茶番劇。  ボケる相手に突っ込みを入れるやり取りはいつものものだ。だが、その内容は耳に入ってこない。灯影院の唇の動きばかりを、僕は意識していた。さっきまで、あの唇が僕の意思を奪い、首筋を這っていたのだ。 「アヤタ? 大丈夫か?」 「え? あ、ああ……」  上の空で返事をしてしまう。灯影院は確実に僕の変化に気づいているはずだ。気づいていながら、知らないふりを続ける。  僕だって、本当は言いたいことがたくさんある。この歪んだ関係を終わらせたいと思っている。でも、それを口にすれば、この日常が壊れてしまう。たとえ不可逆的な亀裂が入っていても、僕にとってはすべて延長線上にあった。十数年分の関係が失われたとき、果たして本当に「普通」になれるのだろうか。狂っていても、最も親しい友人を切り捨てて残るものが、ただの空虚だったとしたら。僕にはそれが怖かった。 「……眠い。そろそろ帰るよ」  今日はこれ以上灯影院の家にいられそうにない。そう思い、立ち上がった。 「送ってくよ。疲れてるんだろ?」  灯影院は友人の顔をして提案する。これが気遣いだったとして、今の僕には白々しい態度にしか感じられない。 「いや、家近いし、一人で帰れるから。また明日な」  拒絶の言葉を残し、僕は灯影院の家を後にする。外に踏み出すとき、送迎の運転席から見たことしかなかった扉が、冷たくて重いことを知る。  いつか、いつかこんな日々も終わるのだろうか。そう考えながら、ちらつく街灯の下を一人歩いた。

2

​ 週が明け、ここ数日は静かな日が続いていた。講義を受けて、空いた時間に課題を片付け、部室もない同好会に黒崎が顔を出す。時間になればバイト先に向かい、そのまま帰宅する。決まりきった日常は僕の心に波風を立てない。それだけが救いだった。  講師がリアクションペーパーをまとめるのを横目に、窓の外を眺めている。今日の講義はこれで終わり。バイトのシフトもない。今週の運転手である灯影院はそれを知っている。だから、今日は誘ってくるだろう。そんな予感がした。  案の定、チャイムが鳴るなり、灯影院は何気ない口調で切り出した。 「今日、暇だよな? 俺の家に来ないか? 新しいミステリー小説を買ったんだ」  ミステリー小説。それは僕を家に招く口実だ。普段の同好会と変わらない活動が意味するところは一つ。もはや、お互いに分かり切った暗号のようなものだった。 「……うーん、レポートもあるし、先に進めようかと思ってたんだけど」  形だけでも拒否の態度を取ってみる。以前なら本気で断ろうとしていた。でも、今となっては濁るだけだ。 「この前貸した本の感想、アヤタにも聞きたいんだよなあ。せっかく二人とも時間あるのに」  諦めの悪い灯影院の言葉に、小さくため息をついた。 「……わかったよ。でも、夕方までだからな」  根負けするように頷く。抵抗しても無駄だと、僕は知っている。灯影院の顔に、一瞬だけ嬉しそうな表情が浮かぶ。しかし、すぐに顔を戻す。 「そうだな。じゃあ、行こうか」  いつの間か教室からは人が捌けていて、周りには僕たちしか残っていなかった。仕方なしに立ち上がると、灯影院は歩き出す。僕はそれを追う。 「それで、委員に指摘された続きなんだけど……」  廊下は午後の光を疎らに反射する。階段を降りて外に出れば、緑と建物と、空きスペースを埋めるように広場が点在している。構内で各々過ごす人を前に、話題は移り変わっていく。そうしてたった数分で、乗り慣れた助手席に収まる。  最近ハマっているのだと、知らない曲がカーラジカセから流れた。バンドの歌うそれは案外センスが良く、どこで知ったのだろうと思う。きっと訊ねたら、それすらも弱味になる。  灯影院の横顔を見ながら、胸の内で息をついた。最近の灯影院は、僕を家に連れ込むことに執着している。僕が応じるようになってからは、もはや当然のように僕の時間を埋め尽くす。  登校、講義、昼食、隙間時間、サークル、下校。高校の教室より広いキャンパスで、灯影院が占める割合は増える一方だ。同様に、灯影院の時間もどれだけ僕と重なっていることか。しかし、灯影院は僕より他人と交流している。確かにこいつは見知らぬ他人と話すことを躊躇しないし、同好会の運営だって発案者だからと任せ切りだ。必然的に他者との関わりは増えるだろう。  ……僕には逃げられるほど親しい相手なんていないのに。  灯影院の家に着くまでの道のりを、僕はぼんやりと車窓に目を向けて過ごした。今日もあの行為を強要されるのだろう。密やかに関係を持ちながら、表向きは友人を演じ続ける。そんな日々にもう慣れてしまったのが悲しい。  右からバタンと音が響き、僕はふと我に返った。運転手はすでに車を降りていた。灯影院はからかうような笑みで、こちらを覗き込んでくる。 「もう着いたぞ。それとも俺がエスコートしてやろうか?」 「いらない、今降りるから」  慌ててドアを押し開けると、見慣れてしまった玄関ポーチと対面する。インターホンのレンズと共に、「佐々木」の表札が鈍く輝く。灯影院は一足先に、玄関扉を抑えて待っていた。 「さあ、上がれよ」  敷地内に入ってなお、目の前でためらう僕の背中を灯影院は軽く押した。僕は覚悟を決めて、灯影院の家に足を踏み入れる。  扉が閉まる音を聞きながら、僕はまたしても、この関係から抜け出せない自分の弱さを呪った。

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