青い糸
​ いつからか中心に居座るようになっていたのだ。自由人で腐れ縁の自称探偵が心の中を占拠する。指針もなく流されて生きているうちに、絡まってしまった感情のように。 ​ 灯影院はいつも僕の隣にいる。十数年、飽きてしまうほどの時間を共に過ごしてきた。しかも幼馴染だからというだけでは埋められないぐらいに、親身になってくれる。部活決めに、大学の学部決め。決定の全てに灯影院が関わっていると言っても過言ではない。 ​ どうして僕なんかに執着しているのか、その理由は見当はついている。ぼんやりと黒板に描かれた図を思い出す。マズローの欲求段階説にある欲求の一つ、承認欲求。これらは誰しもが持つ欲望だと教師の声が不思議と記憶の片隅に残っていた。夏の熱、蝉の声と一緒に。
​ 僕は人との交流が得意ではなく、最小限の繋がりしか持てない。相手に何の話を振るべきか、あまり知らない人とどう話せば楽しくなるのか。まったくわからなかった。それに対して、灯影院は同級生と上手くやる術を身に付けていた。最初は変な名前の転校生も、学年が上がると『変わった奴』としてキャラ付けされていた。田舎の学校は人数が少ないため、変な名前は一発で覚えられる。知名度だけでいえば灯影院はそこそこの人物だったのだ。 ​ そんな灯影院を利用したのは、多分僕が先なのだと思う。まさか、あっちからスイッチを押したとは考え難い。それがドミノ倒しの始まりであるとは知らなかったのだから。 ​ 灯影院の人当たりの良さは羨ましいとは昔も今も思うが、別に妬んではいなかった。でもクラスで一番仲の良い友達が、それも唯一といっていい相手がいないと僕の存在は空気そのものだった。思春期に片足入れていた中学生には不満がある環境だ。どうすればモヤモヤが解消できるだろう。 ​ もっと目立つ? 無理だ。自分はそういうキャラではないし、人に囲まれたいとは思えない。新しい友達を作る? それができたら苦労していない。もしも話し掛けて、裏で陰口を言われたら。 ​ 脳内がぐらぐらと思考でかき混ざる。振り返れば、些細なよくある悩みでしかない。だが、その時は人生で最大の出来事だと錯覚してしまうのだ。 ​ ——そして、間違った答えを選択してしまう。
「灯影院、話があるんだけど」 ​ 夏が近付いて、汗がシャツをじっとりと湿らせる。鞄の重さにつられて遅くなる進み。視界には先行く背中。あんなによく元気でいられるな。これは日常でしかない下校途中のこと。呼び掛けると、学ランの第一ボタンを外したあいつは隣になるように歩幅を合わせた。どうした、なんて言いながら。僕は足を止める。 「学校で、僕以外と話さないで」 ​ 出した声は想像より風景に溶けていく。吐き出した心に、一瞬正気が顔を見せる。僕は何を言っているんだ。何がどうなったら、その結論に辿り着くんだよ。きっと連日の暑さで頭がやられてしまったに違いない。今なら冗談と笑って消せるから。カラカラに乾いた喉で言葉を重ねようとした。 「わかった」 ​ は。息だけが口から溢れ落ちる。隣から聞こえた、たった数文字が理解できない。一呼吸の間に即答した相手へ、深呼吸して台詞を探す。なのに辞書はフリーズして役に立たない。困った挙句の果てに、整った顔を見つめる。その表情はテスト中でも見ないぐらいの真剣さを帯びていた。 「……えっと、その、嘘だからな」 ​ 相手の顔を窺い、ようやく捻り出した言葉はこれだった。せめて笑えれば良かったのに、思考は回らずに俯き加減で呟く。灯影院は怒りや笑い、困惑など何一つの感情を込めていなかった。ただ当然のように受け入れた。いや、もしかしたら向こうはボケだと思って乗ったのかもしれない。可能性は一つでもあった方がいい。藁にも縋る気持ちで、続きを乞う。 「そっか」 ​ 灯影院はいつもの爽やかな笑顔で相槌をした。さりげなく肩に腕を組んできて、暑苦しいと腕を払う。よかった。これでもう元通りに戻った。変なボケを適当に流す、普段の会話そのものだ。ついおかしなことを口走ってしまったが、たまにはこういうこともある。さて、駄菓子屋でこっそりアイスでも買い食いして帰ろう。
​ だけど、一度入れたヒビは誤魔化してもなかったことにはできない。覆水は二度と盆に返らないということを、僕は気付いていなかったのだ。
​ 翌日から、教室に登校した灯影院はほとんどを僕の席の近くで過ごした。休み時間のたびに喋るのは元々だったが、一分でも隙があればこちらの方に来る。読書を趣味としている僕としてはうざったいほどで、しかし追い返そうと考えるまでには至らなかった。それになぜか灯影院は他の友人との時間を減らしたというのに、関係は良好だった。その後、あいつの絶妙なバランス感覚のおかげで、僕は灯影院を通してクラスと関わるようになる。友人という友人は両手で収まったが、不思議なことに酷く浮かず学校生活が送れたのは灯影院のおかげだ。素直に感謝している。 ​ けれど、よく考えてみるとはっきりと幼馴染からの干渉が始まったのも、確か中学生の頃なのだ。それまではお互い自分のことで精一杯だった気がする。これらのことを総合して結論を出すなら、一つしかない。 ​ 多分、いや確実に僕が引き金を引いてしまった。大体、あいつは世話焼きな性格とは言い難い人間なのだ。他人を振り回しながら、なんだかんだで都合良く事を進めていく。そんな人が出来ない奴を相手にする理由。それは非常に利己的なものであるのが自然だった。例えば、自分がヒーロー気分になれるとか。 ​ どうにしても、何にもない人に利用価値を見出すのは当然のことだろう。大学生になって、ようやく違和感の糸口を掴むことができた。というよりは目を伏せてきた事実を突き付けられたのか。でも僕自身、人のことを残酷だとか言える立場ではなく、それに甘んじて受け入れることで日常を繰り返してきた。 ​ 本心がわからなくても灯影院は幼馴染で、友人に変わりない。お互いに利用し合うのと楽しく話せることは同時に成立するのだ。そう思わないと、これまでの思い出が全て嘘になってしまいそうで怖い。他人や自身を信用できない人間が、信用したいと願うのが灯影院だったなんて。縋るのが藁でもなく唯一の友人、それも僕を疑心暗鬼にした当の本人なのだから堂々巡りである。 ​ 仕方無いな、とは思った。諦めにも近い感情だ。長い物に巻かれて、なんとなくで意思決定をする自分にとって灯影院の存在が比重を占めるのは必然だろう。ぐいぐいと押してくる意見を結果的には拒まず、「灯影院の決めたこと」と理由付けすれば、いつだって安心していられる。責任や辛いことはあいつに、面白いことは共有する。虫の良すぎる存在を灯影院は許容してくれたのだ。 ​ その癖、僕が本当に嫌なことはやらなかった。まるで心が読まれていると感じていたが、曲がりなりとも『探偵』をするあいつを見ると納得できた。灯影院は周りを観察し、事実を整理して一つに繋げる素質があった。冗談でも探偵を演じられるということが、どれだけのことか。仮にもミステリー小説を読んできたなら理解していなければならなかったのだ。 ​ 『探偵』が探偵に至るまで、数々の選択を行ってきた。ならば、その中には僕に関することも多少は含まれているはずだった。自意識過剰なのかも知れない。だけれど、昔一度だけ救った縁が現在進行形で続いているのは嬉しいと感じる。自ら手を伸ばさない僕を、見捨てずに拾い上げてくれるあいつ。じゃれ合いながら隣に居てくれる幼馴染の本音と建前も見抜けない。それでも。 ​ 長々と思考してきたが、まとめてしまえば、たった一言で済む話だ。 ​ 僕は、灯影院がいるだけで救われているのだ。形は歪んでいたとしても、誰にも否定させない本当のこと。あいつがどう思考していようと、僕が感じたことは真実だった。それを信じるしか残された道なんて最初からなかった。 ​ この選択が重大なことであるとはわかっている。けれど、たくさん受けてきた恩に報いるなら、友人であるためには、例え何が起きようとも灯影院の傍にいれたらいいと願う。 ​ これは確かに腐れ縁なのかも知れないと自嘲してしまった。離れるなど一度も浮かばないまま、受容しようとしているのだから。元の語源は鎖縁。名の通り鎖のように繋がる強い絆のことだという。僕らは一体どちらの縁なのだろうか。
​ いつかは名探偵だなんて名乗って笑う、あいつの助手になるのも、まあいいかもしれないと想像してしまうのだった。