おんづ屋

その先なんか知っている

 左右に寄せられたカーテンが風に揺れて、昼下がりの太陽を運ぶ。暑くもなく寒くもない、心地良い気温。やわらかな光が部屋に入り込む。 ​ それでも、届かない場所は影となる。影は隅から世界を覆ってゆく——

 繰り返される口付けが深さを増していく。そのたびに思考に靄がかかるようで怖くなる。自分の中身がぐちゃぐちゃになるような感覚は何度経験しても慣れないままだ。そんな思いを察してか、灯影院の唇が遠ざかる。そして僕とそれほど変わらない身長のくせに、包み込むように抱き締められる。今がタイミングとばかりに空気が肺を膨らませるのがわかった。 「アヤタ、大丈夫か?」 ​ 視界に相手の表情は入らないが、心配されていることは声音が何より示している。これ、割と本気で気遣われているみたいだ。ちょっと前の悶えたくなる甘い声は綺麗さっぱり消えていた。 「……大丈夫だよ」 ​ ただし「多分」と後ろにつくが。肩口に顔を埋めながら、もごもごと答えた。なあ、どうして急に冷静になるんだよ。ありがたいけどめちゃくちゃ恥ずかしいからやめろ。なんて言える気力もなく、力の抜けた身体を預けるだけしか出来ない。 「おいおい、無理するなよ」 ​ 灯影院はぐったりとした僕をベッドに座らせた。ごめん、と呟いて仰向けになる。家の次にこの天井を見慣れてしまった。普段だったら夜を思い出し、赤面したところをからかわれるのだが、既にクラクラしている状態ではそれどころではなかった。シーツがひんやりしていて気持ちいい。 「やっぱりアヤタはキス苦手か」 ​ 隣に来た灯影院が頭を撫でる。ふわりと触れられるとなんだか安心する。払い除けるのも惜しくて、目を瞑り、されるがままにしておいた。たまにはこういうときがあってもいいだろう。なんというか、好きになってしまいそうだ。灯影院には絶対に言わないが。 ​ 沈黙は拒否ではない。そんな暗黙の了解の元、しばらく髪を触られていたがふいに手が止まる。どうしたのかと目を開ければじっと見つめられていた。 「なんだよ」 ​ 逸らそうにも逸らせなかったから、ごまかしたくて質問する。いくら許しても恥ずかしいものは恥ずかしいのは当然だ。すると、右手を繋がれた。しかも手指を絡める、所謂恋人繋ぎというやり方だ。 「いや、本当にかわいいな。アヤタ」 ​ 耳元で囁かれた言葉に、心臓が音を立てて跳ねる。こんなこと突然言われて、しかも甘さだけではなく真っ直ぐだったのがいけない。背筋に震えが走った。 ​ これ以上はキャパオーバーだ! 手を解いて、壁際へと寝返りを打った。嫌でも体温が上がっていることがわかる。布団はないのだろうか。被るから、一時間ぐらい放っておいてくれ。今の赤くなった顔は見せられない。不意打ちされたんだから、そう要求したい。けれど灯影院には通じなかったようで、いつの間にか添い寝の形で後ろを取られていた。完全に道を塞がれて逃げられない。ずっと壁と向き合っていたかったが、それも脇腹を攻める手に阻まれてしまった。 「な、なにするんだよっ」 ​ 反射で振り返ったときには、もう遅かった。そいつはにやりと愉しげに笑みを浮かべる。やられた。きっと最初から圧倒的に不利なのだが、それはさておき。 「ん? アヤタは何して欲しい?」 ​ 余裕たっぷりな態度でとぼける相手に、もはや呆れるを通り越して尊敬さえ覚えた。シングルベッドの上では何もしなくてもほとんど抱き締められているのと変わらなくて、こっちの内心さえバレている気がするから不公平だ。ドキドキと呼吸は苦しく、どんどんペースを乱されていく。ずるい、と一言言うかわりに、視線を外した。素直に応じてやるつもりはなかった。なのに。 「おいで」 ​ 腕を伸ばされればそれはもう捕えられていると同義だ。手がギリギリ当たらないのがもどかしい。こう考えている時点で結果は見えていて、仕方無く傍に寄ったのは流されたからだろう。腰に手を回されて、逃がさないとばかりに固定される。ぎゅっと抱き込まれると、もう僕の抵抗する気持ちは溶けてしまった。胸元で息を小さく吸い込めば安心するなんてまるで子供だ。 「好きだ」 ​ 繰り返し繰り返し、浸透させるように伝える声や言葉が響く。いつもなら一回目でいたたまれなくなるのだが、吹っ切れて逆にしがみついてみる。これなら顔は見えないだろ。どうせ心拍数はさっきから上がりっぱなしなのだ。ならば相手の意表を衝きたくなるのは当然だ。 「……僕も」 ​ ピタリと動きが止まる。数瞬、深呼吸の音が届く。ぽろりと溢れた感情は消えずに、やはり聴かれた。気持ちを口にするのはめちゃくちゃ恥ずかしい。でも、たまにはいいじゃないか。あとでもんどり打つことになるとしても、今はこういうテンションなんだよ。察してくれ。 「今日は、甘えたなんだな」 ​ 恐る恐る見上げれば、嬉しさを隠すこともなくとろけた笑顔が広がっている。しかし、ちらりと怪しい光を帯びた瞳が覗くのは気のせいではないだろう。後悔の単語が脳内を過る。それも灯影院の次の行動によって飛ばされてしまった。 「っん!?」 ​ 左耳をぬるりとした感覚が襲う。耳を食まれている。どういうことだ。軽いパニック状態に陥った。暴れようにも足が割り込まれて絡み、狡猾に身体を封じられている。そのため快感に耐えるしか出来ない。水音を間近で聞かされて、舌でなぞられる。異常事態に吐息が抑え切れずに洩れ出る。こんなことされたのは初めてだ。一通り舐られ、ようやく口内から解放される。唾液に濡れた耳は空気でひやりとした。慣れない行為にしばし呆然としてしまう。手は相手の服の端にしわを作り、口は上手く閉じれない。少しでも行為の意図が掴みたくて、探るように瞳を窺う。するとぐいと肩を押された。 「なあ、アヤタ。これは誘ってるってことでいいんだよな?」 ​ ぱたんと下に組み敷かれた。天井の代わりに視界は灯影院に独占される。まじまじと見つめれば、真剣な目付きと赤みを差した頬が確実に余裕が削られていることを証明している。なんだ、こいつにもかわいいところがあるんじゃないか。好き勝手されたあげくの果てに押し倒され、鼓動がうるさく鳴っている。どう考えても明らかにしてやられた状況というのに、僕は頬がゆるむのを感じていた。おかしいだろうか。だが、こいつに変なことされて拒めないのだから、とっくに灯影院に染められている。あまりに流されすぎたともいえるが、それでいい。それがいい。いつからだとかは、今は放っておこう。この体温や心拍数は嘘が吐けないだろうから。 ​ 目を閉じて、首を引き寄せる。瞬間、触れた唇の距離はゼロ。押し付けるようなキスに、戸惑いながら応える様子が手に取るようにわかった。だけど気が付くと容易に舌が侵入されていて、すぐに相手のペースだ。じゃらされながら遊ばれていれば、こちらの主導権なんて幻だった。動かせば動かすほど底の見えない場所へ落とされる。激しさを増す戯れは、どろどろとした快楽とふわふわとした意識を切り離してしまいそうで必死に繋ぎ止める。重力に逆らえずに溜まった唾液をゆっくり嚥下する。迷いはない。やはり頭の中が混ざるような、強く塗り潰される気分を味わい、紛らわすために背中に手をきつく回した。 ​ ——これまで経験したこともない長い長い口付けは銀の糸が切れるまで終わらなかった。 ​ 浅い呼吸を繰り返し、放心状態で横たわる。相手に少しでも近付けば再び、それよりもっと乱されるのだろう。毎秒ごとに甘さがじわじわと身体を蝕んで発火する。脳まで熱が通じてぼんやりとしていると、突飛な考えに行き着いた。こんなにふらふらするのは平静を溶かしつくされたせいで、だからこれが苦手なのかもしれない。作り上げたコーティングが剥がされて、自分が見つかってしまう。そうして知らんふりをしているはずの心と向き合うと、素直にならざるを得ない。そこまで考えれば意識しなくたって理解する。とっくのとうに、欲望に埋められてたまらないことを。つまり、僕は灯影院に。 「ほかげいん」 ​ 世界中の他の誰にもわからないように呟いた言葉はただ一人、恋人に届いて静かにキスが落とされた。

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