おんづ屋

また明日、と君へ

「なあ、アヤタ」 ​ 今日は灯影院の運転で大学と家へ送迎してもらっていた。付き合ったからといって何か変わったことはなく、ゆるい雑談をしつつレポートを書いてと大学生の大半はそうそう日常から逸脱することもない。むしろ日常生活はやらなければいけない事で溢れている。あの時は確かに非日常であったがそれさえも幻だと言われたら信じてしまいそうだった。 ​ だから車内が眩しい夕焼けの光に満たされた、別れ際。僕の家の目の前で、発したあいつの言葉は脳内を反響して捕えるのに時間が掛かってしまった。 「キスさせて、ください」 ​ 取って付けたような敬語は内容の把握には必要なかった。灯影院の表情が逆光で読めなかったことも関係なかった。ただ僕が意味を理解するまで、灯影院は身動ぎ一つしなかったことをなぜか覚えている。 ​ そりゃ、形だけでも付き合っているんだからそのうちするのだろうとかは考えたことは認めよう。だけど、なんというか、急な気がする。僕が世間一般のカップルについて知っていることはほとんどないが、段階的にそういう行為を行うものではないのか。でも僕らは男同士だからそれには当て嵌らないのかもしれない。 ​ だとしても、僕はキスをしたことはない。大体の人が未知の物事に恐怖するように、僕は不安を感じている。やり方がわからないというのもあるが、一番は灯影院を拒否してしまう可能性が大きかった。少なくとも男を好きになったことがない僕は同性愛を受け入れられるのかわかるわけないのだから。 ​ それでも最初から断るという選択も出来なかった。なぜだろう。ふと灯影院は緊張しているんだと思うと、やってみるだけやってみてもいいんじゃないかと考えていた。 ​ ようするに、僕は絆されてどうにでもなれと、ここでもやはり灯影院に丸投げしたのだ。 「……いいよ」 ​ ところでこういうときはどうするべきなのだろう。右往左往している僕に、灯影院は落ち着いた声で指示を出した。 「アヤタ、こっち向いて、目閉じてくれ」 ​ 言われるがままに灯影院を見た。そっと視線がぶつかって、複雑に絡んだ心情をそこに読み取ってしまうとなんだか恥ずかしくなる。自然と視界は閉じていた。今、相手はどんな気持ちで僕に向き合っているのだろうか。心なしか鼓動が早まっていると気付く。 ​ 心臓の音に気を取られていると、唇は重なっていた。長く待たされたような、すぐだったような、暗闇の中では時間感覚がおかしくなる。触れた灯影院の唇はかさついて、味はなかった。初めてのことにどこか他人事に感じて冷静ですらあった。 ​ すっ、と離れていく気配がして、僕は恐る恐る瞼を上げた。途端に飛び込んできた橙色に目を細める。運転席の相手を窺えば、どこか複雑そうな表情をして俯いていた。キスされた僕はどうすればいいんだよ、これ。 「どうだった」 ​ ぽつりと灯影院が呟いた。えっと、これは先程の感想を求められているのだろうか。人のファーストキスの感想を訊くなんて、こいつの無神経さにも程があるだろ。 「キス奪っておいて、なんでそんな態度なんだ」 ​ 大体、灯影院は僕のことを好き、だとか言ってたはずなのに嬉しそうにも見えない。別にキスされたいとかまったく考えていなかったけれどその反応はどうかと思う。ふつふつと小さな苛立ちが沸いてきた。 「そっちこそ急にキスさせろなんて、一体どうしたんだよ」 ​ 恋人らしいことなんて何一つしていなかったのに、突然の要求に僕は心底驚いていた。相手の思考が全然理解できない。まさかではあるが身体目当てだとかではないだろうと思いたい。 「最初はきちんと段階を踏もうと思ってた」 ​ 灯影院が顔をゆっくり上げた。意識せずとも呼吸が聞こえて、ここは密室であることを実感してしまう。 「でも、よくよく考えたら二人きりになれるところが少ないし、安全に二人きりになれるところなんて車の中ぐらいしかない。その上、手を繋ぐとかのスキンシップをアヤタは嫌がりそうだと思った。だから、どうしようかと悩んだ。ここで言っておくが身体目当てとかそういう訳ではないからな。俺はアヤタ一筋だし」 ​ 灯影院は吹っ切れたのかさらに言葉を重ねる。そして僕の心を推し量るように見つめてくる。目を逸らせなかったのは不思議な力でも働いていたからだ、絶対。 「それでだ、他に恋人らしい行為といったら次はキスぐらいしかないだろ。これなら一瞬だし、アヤタも大丈夫かなと。だけどタイミングは掴めないし、かといって何もしないのも、その、あれだ。……とにかく考えれば考えるほど泥沼にはまって、もういっそ押し倒そうかと思ったけど流石に踏み止まったさ。けどそろそろ我慢しきれなくなってきた。だから朝の占いで『恋愛運が絶好調、きっと上手くいく』みたいなことを言ってた今日がチャンスだと確信したんだな。なので俺はアヤタにキスをしました、以上」 ​ 相手は一段落ついたとばかりに息を吐いた。どうしよう、ツッコミどころ満載だ。僕は反射的に反応してしまった。 「いやいや、そもそもの前提からおかしくないか!? 普通手を繋ぐよりキスの方がハードル高いだろ! しかも、さりげなく危険な発言したけど冗談だよな!? あとお前朝の占いとか見て、参考にするタイプだったか? それでさらっと僕にした件をまとめようとするなよ!」 ​ 一気に捲し立てたために、息が切れた。さっ、と灯影院から差し出された緑茶で喉を潤す。こいつ無駄にフォローが上手いんだよな。微妙な沈黙に包まれて、段々と恥ずかしさが込み上げてくる。そして少し頭を冷やして気付く。根本的で重要なことを訊き忘れていた。 「その前に、僕が拒むとか思わなかったのか?」 ​ 目は合わせずに口にした疑問を、灯影院は数秒後あっさりと答えた。 「アヤタは俺のことを好きだと思ってた」 「どこからきたんだ、その自信」 ​ びっくりして顔をまじまじと見てしまった。当然のように話しているが、僕は灯影院に告白をされた側であっても、その反対は成立していない。確かにあの時、勢いに呑まれ流されるままに首を縦に振ったのは事実だが、ただそれだけだ。 「まあ多少は願望も入ってるけど、一応根拠がない訳ではなかったぞ。でもアヤタに教えたら対策されるだろ? アヤタはツンデレだし」 「誰がツンデレだ。ツンもデレもないものを捏造するな。というか僕はお前のことを好きだなんて一言も言ってないんだけど」 ​ なぜか勝手に性格を決めつけられている部分に食い付いてしまったが、根拠とはなんだろうか。少なくとも灯影院を恋愛的な意味で見たことは一度もないと明言しておこう。 「ふぅん。やっぱり誰しも自分のことは自分が一番解らないものなんだな。ああ、それはさておき」 「さておくな」 ​ 割と重大な話題を軽く流そうとした灯影院に非難の目を向けようとして、止まってしまった。ピンと張り詰めた空気。知らぬ間に日常は一変していた。相手の緊張が伝わってくる時ってどうしていいか困るから苦手なのに。 「嫌、だったか」 ​ なにが、とは言わない。その言葉で現実に引き戻された。問い掛けるでもなく確認をするような響きに何か言わなければならないとわかってしまった。そうしなければ、きっと。 「名探偵だろ。そのぐらい推理してみろよ」 ​ 自然と口が動く。どこか投げ遣りな台詞だが、それだけで灯影院は笑った。 「大切な助手からの依頼なら請けるしかないな」 ​ そうして、ふわりと抱き締められ……あれ? 「急に何してるんだよ!」 ​ 突然の腕を解いて、僕はささやかでも距離を取った。こいつは本当に油断ならない。推理しろとしか言ってないのに触ってくるとは。 「やっぱりアヤタは警戒心が強い猫みたいだな。そういうところも好きだけど」 「訳わからないところを褒められても嬉しくないから」 ​ 心底愉しそうな灯影院に、安心とムカつきを抱えてしまった。結局、こいつの中で推理が終わったのだろうけど解決篇はなさそうだった。一体どんな風に決着したのか態度でわかるといえば丸わかりだが、不本意な形で把えられている気がする。 ​ ふと窓を見れば、空は夜の暗さに染まりつつあった。かなりの時間経っているようだった。家の前で不自然に停められた車は誰かが不審に思っていてもおかしくない。それにさっきまでの事を考えてしまうと不安が募ってくる。そんな僕の思考を見透かすように、灯影院は呟いた。 「明日もあるし、ここで解散するか」 「そう、だな」 「アヤタごめんな、次からはもうちょっと考えるから」 ​ 申し訳なさそうな表情とは裏腹にちゃっかりとした性格。抜け目ないと呆れてしまった。 「次もあるのかよ」 「ダメか?」 「……どっちでもいいよ」 ​ また僕はこいつに流される。ぼんやりとこの構図が変わらずに続いている未来を想像して、掻き消した。何を考えているんだ。これはこちらが甘いのか、向こうが上手なのか。間違いなく言えるのは、僕らには次があることだった。 ​ 左手でドアを開ける。見慣れた家が視界に入って、そういえば帰宅の最中だったことを忘れていた。一歩外へ踏み出そうとして灯影院は呼び止める。 「そういえば」 ​ 何だよと返して、ぐんと詰められた距離と耳元で囁かれた言葉。僕は唖然とした。慌てて衝撃の大きさにふらつきながら車を降りる。どういうつもりなんだ、こいつ!? 「また明日な」 混乱を起こした当の本人はこれまでにない爽やかな笑顔で手を振っていた。何か叫んでやろうかと口を開いても、空気が吐き出されるのみ。そのうちエンジン音はどんどん遠ざかっていってしまった。 ​ 玄関を目の前に力が抜け、地面に座り込み頭を抱えた。なんなんだ、本当になんなんだ。僕は見事なまでに最初から最後まで振り回されたということか。人の脳内をこんな乱しておいて、よくもあんな笑顔ができるな。いや、あれが予想通りに事が運んでの喜びだったら殴ってもいいと思う。だとするとあの時、わざとそうしたのだろうけど…… ​ こんな風に普段考えないことで頭が占拠されていたから、この状況の第三者からの見え方に気付かなかった。 「アヤタ、どうしたの? そんなところでうずくまって。もしかして明日は雨でも降るのかな」 ​ そうだ、ここは玄関の目の前だった。だからカナが扉を開けて、なぜか座り込んでいる兄なんかに遭遇してしまう可能性もあったのだ。僕は犯行現場を見つかった犯人のように狼狽えた。 「いや、その、これは」 「とりあえず中に入って。近所の人に見られたらそれこそ恥だよ」 ​ カナはいつもと変わらず毒舌だった。だけど、今回ばかりはそれに救われる。急かされて扉は閉まった。

「アヤタが変なことするのって珍しいよね。アヤタ自体は変だけど」 ​ 何があったの、という質問から僕の部屋にて事情聴取が始まった。多分これは心配半分野次馬半分なのだろうが、正直なところ早く一人にしてほしかった。じゃないと脳内の整理はできそうにない。本当のことだけは世間的な都合と兄としての尊厳を護るために黙秘しなければならないというのもある。そんな事情なんて知るはずもなく、妹の追及は止まない。できるのは、ごまかしと躱すことだけだった。 「そんなに言いたくないんだ」 ​ 十分後、ようやく諦めたらしくつまらなさそうにカナはため息を吐いた。こっちとしては何時間にも感じられるぐらいの尋問だった。女子中学生の好奇心はあなどれない。今すぐにでも寝たいぐらいに疲れた僕が憐れだったのか、いつの間にか無言でカナはドアノブに手を掛けていた。しかし、何を思ったかくるりと振り返る。 「まあ、どうせほかげっち絡みのことなんでしょ? アヤタがここまで頑なになるトラブルなんてそれ以外思い付かないし」 ​ バタンと閉じたドアと捨て台詞に、わかってて訊いたのかよと愚痴が溢れたのは仕方無い。まるで灯影院だ。意識してしまうと別れ際を思い出してしまった。ああ、もう、誰もいないからいいか。這うようにベッドに横になって、記憶を思い出す。今日はいい夢なんか見れないだろう。 『明日からは最後にキスさせてくれ。あと、あのお茶は俺の飲みかけだったんだぞ』 ​ ムカつくほどにいい笑顔のあいつがありありと浮かんできて、消してやりたいのにそのまま僕の意識は沈んでいった。

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