芹が花鳥の下の名前を呼ぶ話
大抵の面倒事は、ちょっとした一言から始まると相場が決まっている。それも、普段何を考えているかわからない人間の発言ほど危険なものもない。
「芹くん、なんとなく思い付いたんだけどさ」
「嫌な予感しかしないから言わなくていいよ、月宮くん」
お昼休みの教室で月宮くんが僕に話しかけてきた。暗黒破壊神は教師に呼び出されていったので、そのままギリギリまで時間を潰してほしい。お弁当ぐらい静かに食べさせてくれ。
「芹くんって下の名前で人のこと呼ばないよね」
見事なスルー。しょうがないので、箸でウインナーを掴みながら渋々答えた。
「そんなの人によるでしょ。僕にとってはこれが適切な距離感なの」
「えー、でも呼んでみたら案外しっくりくるかもしれないし、一度やってみてよ」
俺は芹くんのこと、「芹くん」って呼んでるからおあいこだよ。ほらほら。急かされるように圧力をかけられて、おかずを飲み込んでから腹を括った。
「……ウツギくん」
あぁー!! 慣れない! パッと口に出せず引っかかってしまったけど、なんか恥ずかしいな。呼び方一つでむず痒い気持ちになるなんて思いもしなかった。やっぱり僕はあだ名呼びできるキャラではない。それにしても。
「というか、月宮くんも基本下の名前で呼ばな……」
「待たせたな、ゲシュテーバー! 俺は地獄地帯(ヘル・エリア)から無事に帰還したぞ! 一緒にご飯食べよう!」
「おかえりー、花鳥」
素朴な疑問を掻き消して、花鳥くんが職員室から戻ってきてしまった。想像以上に早かったし、その表情には何の翳りも見られない。あまりにも酷い中二病に先生たちが痺れを切らしたのかと期待していたんだけど。
「聞いてくれ、ゲシュテーバー。実は昨日道で困っていたおばあさんを助けたら、その人が用務員さんのお母さんだったらしくて、教師伝手でお礼言われちゃった」
まさか褒められてたのかよ。担任から呼び出しを喰らったとき、肩が微かに震えてたの見たぞ。また何かやらかしたのかと思ってた。 別に褒めているわけじゃないけど、根はいい人なんだよな、暗黒破壊神。
「よかったね、はな――」
「兜は偉いよー。ねっ、芹くんもそう思うよね?」
えっと、咄嗟に僕の口を手で塞がれたのは何故でしょうか。月宮くんはミゲルでもシュトゥルムフートでもない名前を呼ぶ。もしかして、これってそういうことを要求してるの? いや考えろ小雪芹。これは中二病ネームで呼ぶよりかはよっぽどマシだよ。うん。
月宮くんは当たり前のように僕の考えがまとまったあたりで手を外してきた。ナチュラルに思考読まれることを前提にしてしまっている自分が怖い。仕方ないので深呼吸を一つして、流れに乗ってあげた。
「か、兜くん、はすごいと思うよ」
花鳥くんは目を大きく開いてポカンとしている。僕は僕でどういう反応を返されるか、少し、本当に少しだけ気になっていた。けしかけた本人はゲラゲラ笑っている。
「ゲシュテーバーが褒めてくれた!」
キラキラと瞳を輝かせて、花鳥くんがこっちに顔を寄せてきた。ちょっ近い、離れろ。手で押し返しても中々にしつこい。というか、それだけ? それとも違いに気付いていないとか?
すると月宮くんが笑いを押さえようともせずに、余計なことを吹き込んだ。
「あのね、花鳥。芹くんが『勇気出して下の名前を呼んだのに反応がなくて寂しいー』って」
「思ってないから!」
勝手な想像で話を進めるな。ただ無視されてるみたいだったのが気に食わなかっただけで、寂しいなんて言ってない。想定外だったというだけの話だ。
「すまん、ゲシュテーバーに褒められたことが嬉しくて、他のことにまで気が回らなかった」
「聞こえてたんだ」
「ああ、呼ばれていたことには気付いてたぞ。ただゲシュテーバーが呼ぶなら、全部同じだからな」
あわあわとフォローしているつもりであろう花鳥くん。でも、なんだよ、それ。せっかく慣れないことしたのに『同じ』って。結局、僕の恥ずかし損じゃん! 何かを期待していたわけでは決してない。だって、かまってほしそうな態度を取るのはいつだって花鳥くんで、僕はそれに巻き込まれているだけだ。今だって、月宮くんが半ば強制してこなかったら言うこともなかった。だけど。
「もう絶対に下の名前でなんか呼んでやらないからな!!」
僕は馬鹿らしくなって、教室を飛び出す。昼下がり、人で溢れる廊下を駆けていく。周囲の生徒たちが呆れた視線を向けていたことなんか知らずに。
花鳥くんなんか、永遠に「花鳥くん」のままでいい!
「でさ、花鳥。実際に下の名前で呼ばれてみてどうだった?」 「照れてるゲシュテーバーがかわいかったな」 「じゃあ、ミゲルとかシュトゥルムフートって呼ばれるのと、どっちの方が好き?」 「ゲシュテーバーが呼んでくれるだけで嬉しいから、特にどっちがいいとかはないんだが」 「ああ、そう」